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言霊・第四話 法家思想

 贏政が後宮で過ごした頃、韓非は宿舎で文机に座っていた。が、机の上には真新しい竹簡が広げてあるだけで、韓非の手に握られた筆は一向に動こうとしない。張昂はそれを心配そうに見つめ、
「公子、そろそろお休みになられては如何ですか?」
 と声をかけられて、ようやく韓非は筆が全く進んでいないことに気が付いた。
「あ、いや、まだ……」
「ですが、食欲がないと言って椀に粥を一杯召し上がっただけです。今日は色々あって昂っておられるのではないですか?」
「そう、だな……」
 まったく覇気のない声で韓非は答えた。
 韓だけでなく、魏、趙、燕、斉、楚も滅ぼし統一すると贏政ははっきり言った。つまり、贏政がそれを行えば、各国の王室はなくなり、王族やそれに連なる者たちは路頭に迷うことになる。仮令庶子だとしても、自分も韓の公子である。これはなんとしても食い止めねばならない。これは韓非だけでなく、他国の君主や公子、上卿たちもそう考えている筈だ。   それなのに、贏政ならば自分が書にまとめている法の思想を形にして施行することができると思うと、どうしても複雑な気分になってしまうのだ。
 例えば、斉の桓公や晋の文公などの「春秋五覇」と呼ばれた優れた君主はその名と功績を語られるが、実際には彼らのような優れた君主が度々現れることはない。それは暗君や暴君にも言えることである。史書に名前くらいしか残らない、至って平均的な能力と道徳観をもった者が君主である時期の方が圧倒的に長いのだ。その君主が他国に害されること無く、また後継者争いなどの内乱を起こさずに国を治めるためには、儒家がよく口にする「天意」などの理念ではなく、正しく定められた「法」が必要不可欠だと韓非は考えていた。
 天意など、解釈次第でどうとでもなる。だが、法は違う。そのような何通りの解釈ができるような法ではなく、厳密な法を作り施行し浸透させれば、多少君主として力量が足り無い者でも国を治めることが出来るはずだ。韓非はそう確信しているが、父である韓王に重用されていない自分には、それを進言することすら出来ない。何通も書いた父に当てた意見書が全て読んで貰えなかったのだ。
 今回の秦からの宣戦布告の取り下げには成功したが、それだけでは重用されぬだろう。だが、贏政は違う。あそこまで入念に調べていることからして、嘘をついているようには思えない。もし贏政が統一した国家を作ったとしたら、広大な国土を治めるために法も改めねばならない。その法を作ることができるとは、法の思想を常に考えている者にとってこれ以上魅力のある申し出はあるまい。それに、やはり戦乱の世に産まれた男ならば、やはり後世の史家に名を知られる存在でありたい───。
 そう思った時、韓非は自分でも驚いた。韓王に意見書を書いては何の返事も貰えないときなど、やはり自分など価値も才もない人間だと落ち込むことが多々あり、もう諦めた方がいいとさえ考えたこともあった自分にこのような欲がまだ残っていたとは。不思議なものだ。これもあの希有な君主といえる贏政に感化されたのだろうか。
 韓非は深く息を吐くと、竹簡を仕舞い、張昂に休むと言おうとしたそのとき、
「公子様、入っても宜しいでしょうか」
 と問う若い女の声が聴こえ、韓非と張昂は思わず顔を見合わせた。
「何者だ。このような時刻に何用だ」
 張昂が低い誰何の声を戸口に向けると、若い女が姿を見せた。
 見たところ、まだ二十にも達していない女であった。艶やかな黒髪を結い上げ、凝った細工が施してあるかんざしをさしている。服装も女官が纏うような飾り気が少ないものではなく後宮に住まう妾妃のような華やかであり、鮮やかな紅を主とした色合いが、その女の匂い立つような若々しさと色香を一層引き立てていた。彼女は裳を優雅に揺らして入室し、両の膝を折った。
「お初にお目にかかります。韓の公子様。わたくしの名は李尚。秦王より公子様のお世話を申しつかりました者でございます」
「李尚……そなた、もしや李斯殿の縁者か?」
「いえ、あの方は楚から秦に来られた方。わたくしは生まれも育ちも秦でございます」
 そう言って李尚は韓非に向かって微笑んだ。余談だが、基本的に同じ姓の者同士は同族と見なされる。出身国が違えば血の繋がりなどないのだが、遠い祖先は同じという考えが浸透しているからだ。そのため、基本的に婚姻は認められない。
 張昂も彼女が何の世話をしに来たのか分からぬ程莫迦ではない。秦の国内で彼女を無下にすることはできない。そのため張昂は韓非に拱手し、
「では、わたしはこれで」
 と言って張昂は部屋を出て行った。残された韓非は、思わず李尚を見た。
 人がもっとも堕落に導きやすい欲と言えば、色欲だ。骨抜きにして、ここに留まらせようとしているのか、またはその逆で厳格な贏政が自分が色欲にあっさりと溺れる者かどうか試しているのだろうか。分からない。あの青年王の考えていること推測するには情報が少な過ぎる。
 十歳以上年下の李尚は女性として大変魅力的だ。彼女も自分の美しさ、魅力を十分に分かっているのだろう。韓非は異性でも同性でも、こういう手合いを前にすると自分の見窄らしさを嫌でも再確認してしまうことになるため、なるべく接触を避けるようにしていたが、秦王から命じられてきた彼女を追い出すことは難しいことは分かっていた。
「い、いや、わたしは、その、疲れたので、……ゆ、ゆっくりと眠りたい」
 ぼそぼそと答えると、李尚の笑みが微かに歪んだ。彼女は袖で口許を多い横を向くと、
「わたくしがお気に召さないのですね。ですが、王命を果たさねば、わたくしは……」
「あ、で、では、着替えを……手伝って、貰いたい」
 韓非は慌てていった。そう言えば、まだ深衣を纏っていた。李尚は潤んだ眸で頷くと、早速夜着に着替えるのを手伝い、あれこれ言葉をつくしたが、結局寝所に入ることはできなかった。

 韓非は旅の疲れや贏政にたいする気疲れもあってか、寝台に寝転ぶなりあっとういう間に眠りに落ちた。一方、拒まれた李尚は時間が立つにつれて怒りがつのり、思わず乱暴にかんざしを髪から抜き、回廊の床に投げつけた。
 贏政が韓非と二人で会談を行っているところに酒を運んだ女官の話しを聴く限りでは、贏政の方が韓非に執心しているように見えたという。もし彼が韓を捨て秦に来ることになれば、それ相応の地位に就くことなる可能性は高い。そのため、李尚は自分が韓非の世話をすることになったことの対して喜んだ。もし正夫人として望まれれば、今よりもずっと楽な暮らしができる。どうみても気が弱そうな男な韓非など、いくらでも操れる。そう思っていたのに、初日から拒まれてしまった。日頃、文官や武官たちからの誘いの視線を受けているため、自分の容貌には自信があったのに。
「見てなさい……絶対逃さないから」
 李尚はほつれた黒髪を指に絡ませながら呟いた。そのとき、
「李尚殿」
 ふいに後ろから呼ばれ、振り向いた。そこにはまだ年若い文官が立っていた。
「もうお戻りですか? 韓の公子様は……」
「だいぶお疲れのようで、もう寝てしまわれましたわ。公子様は明日秦王様とお出かけのようですので、その準備を手伝わなければなりません。ですので、わたくしにももう休むように命じられました」
 李尚はやや早口でそう言った。これは嘘ではなく、韓非はどのような衣服で行けばいいのか分からないため、見立ててほしい、と吃りながら言ったのだ。これは李尚でなくても張昂でも構わないはずだが、気を使ってくれているのだろう。だからこそ、余計に腹立たしいのだ。
「では、これで」
「お待ち下さい。あなたに会って頂きたい方がいるのです。決してお時間はとらせませんし、あなたにも有益なお話です」
 宮中の裏では数多の臣たちが己の出世のために動いている。実力主義の贏政に認めて貰うため、あちこちに声を掛けている者は少なくはない。おそらくは自分と同じく韓非を出世のために利用しようとしている輩だろう。李尚はほんの少し考えたが、文官のあとについて行くことにした。

 贏政は謁見の時に言った通り、韓非を王専用に馬車に乗せ、国都である咸陽を案内した。無論それだけではなく、韓非を秦に来るように説得をするためであった。
「そなたの書いた書の中で、孤憤篇と五蠹篇がおれは一番気に入った。むろん、他も面白かった。確かに女や親族に口を挟ませるべきではない。長い歴史上幾つも国が滅んだが、戦いに負けたのは仕方がないと思えるが、女に溺れたり、無能な親族や耳障りの良い言葉しか吐かぬ側近の言いなりになったあげく国を滅ぼしたとあれば、後世の史家達は声を上げて嗤うだろう」
「そ、そのような、前例があったからこそ……同じことを、してはならぬのです」
「その通りだ。過去を過ちを受け止め、学ばねばらなぬ。そのための歴史を学び、また才人であれば多少の欠点があっても側に置くべきなのだ。ただ……」
 韓非は顔を上げた。贏政が軽く咳払いをした。
「法を君主の上に置くことはないのではないか? 商君(商鞅)が作った法が施行されたため、今まで罰せられることがなかった者たちの恨みを買い、商君は惨殺された。それを知らぬわけがあるまい」
「……そ、それは、ある意味、仕方のないことだと、お、思います」 「そうか……」
 贏政のいうことも分かる。しかし、君主が法に縛られるからこそ、下の者も法に従うのだ。例外を作ってしまえば、法を遵守することがばかばかしくなる者がでてくるだろう。韓非はそう考えていた。それに、仮令、法が王の上にあったとしても、贏政が自分を守りきるのは無理であろう。むろん、自分の身に何かあっても構わないというわけではない。腰斬や車裂きなど残酷な処刑法は多数あり、そのようなことで死にたいとは決して思わない。だが、そうなったとしても、やらなければならないのだ。そうでなくては国は滅ぶ。
 そのとき韓非は、はっとした。やはり自分は韓を滅ぼすのを静観することはできないのだ。仮令必要とされなくても、父王がいて母もいるのだ。どうして見捨てられよう。だが、今はそれは言うべきことではないため、韓非が黙っていると、
「そう言えば、あの女は気に入ったか? なんならお前の妾にしても良いぞ」
 贏政がからかうようにいうと、韓非は悲しく微笑んで首を左右に振った。
「い、いえ……、じ、実の母親でさえ、こ、この吃りを、疎んじております。あのような、わ、若い方なら、尚のこと……」
 そこで韓非は言葉を止めた。贏政が見たことのない表情を浮かべこちらを見ていたからだ。その眸が揺らいでいるのは、自分も韓非と同じく母親に疎んじられているからだろう。贏政は眸を伏せ顔を背けると、
「そのようなこと、気にすることはない。要はお前は気に入ったかどうかだ。気に入ったのなら、側に置け。俺が許可する」
 と言ったきり、贏政はいつもの表情で顔を前方に向けた。

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