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言霊・第五話 暗躍

 戦国と呼ばれる時代とその前の春秋時代では、自国の王には仕えず、他国に渡るものが多数いた。
 自国で何かしらの陰謀に巻き込まれ亡命することもむろんあったが、己の才を自国の王が認めない、或いは仕えるに値しないと判断すると、さっさと自国を捨て他国の王に仕える者も少なくはなかった。
 例えば、秦の出身ではない李斯(りし)も、手段はともかく、秦王贏政の死後ではあるが臣では最高位である丞相(宰相)の地位を得ることになる。そして、高い地位を狙うのは男に限ってではなく、女にも生まれが賤しくともその知恵と美貌で高い地位を狙う者は存在していた。
 女としての最高位とは皇太后であるが、これはそうそうなれるわけではない。そもそも王の後宮い入ることはそう容易でないのだ。だが、上卿(大臣)などの高官の妾にならばなれる可能性は十分にある。もっと分かりやすく言えば、上卿の正室は大抵の場合、良家の女性であるが、苦労の知らない人の悪意や策謀などに縁遠い女性が多い。上手く高官に近づき側室として入ることが叶えば、正室を陥れて追い出したあとに自分が正室となることは可能だ。そして男子を産み、その子がその家の当主となれば、女として高い地位を得ることができるのである。だが、もし自分の産んだ子よりも他の側室の子を後嗣に選ぶ可能性がある。ゆえに、自分の産んだ子を確実に当主にするならば、夫が早死にすれば良いのである。そうすれば、正室の子があとを継ぐのは自然なことであり、まだ年若い自分の子は自分の言うことに逆らうことはないだろう。だからこそ、高位の者は側室を娶るときは気をつけなければならない。女の本性を知ることは難しいが、後嗣を決めるのは正室でも側室でもなく当主なのだ。虎視眈々と家を乗っ取られないようにするために、先んじて手をうっておいたほうがよい───。
 韓非は己の書にそのような内容の文章を書いたのは、今までの歴史を振り返って、女が元凶で国が滅んでしまったことが繰り返されて来たからだろう。

   最も古い王朝である夏、殷、西周などの王朝の滅ぶ要因が女であったことは史書に記されており、韓非だけが知っておりことではない。また、滅びるまでは行かずとも、晋の驪姫(りき)ように女が王室が混乱を招いた原因となることも多々ある。しかし、それらは教訓として活かされず、例えば呉の場合、弱体化を狙って越より送り込まれた西施により、呉王を堕落り、結果呉は越によって滅ぼされた。
 王を意のままに操り、最終的には国を滅ぼし意のままに操る女は歴史上何人もいた。それは、当然のことながら決して愛情からではない。彼女ら己のが利益のため、国を滅ぼす要因を作ったのだ。
 韓非は常日頃から感じている人の本性とは、損得で動くものであり、口では殊勝なことをいうが、それなりの働きをすればそれに見合った報酬を得ることは当然であると考えている、と思っている。稀に義理や恩で動く人間はいるが、大半の者は、無償で働くことなどしないだろう。
 ゆえに、自分の世話をしてくれている李尚は上かた命じられて世話をしてくれているだけであり、好意があるように見せるのは、自分が韓の公子であるからだ。ただ、それだけのことだと頭で分かっており、心の奥で響く警鐘の音は少しずつ大きくなっているのだが、無意識に彼女のその瑞々しい美しさに見蕩れているときがあった。だからこそ、彼女が無邪気な表情で韓非の書を読んでみたいと言ったので、つい書を手渡してしまったのだった。
 ───国を滅ぼす程の女はこれ以上に美しかったのだろう。しかし、今の私にもその気持ちが分かる気がする。
 韓にいたときはほとんど自室で過ごしており、出会う人間も限られていた。また、庶子で吃音であったため、後嗣になる可能性が極めて低いと思われた韓非に取り入ろうとする女などはなく、また韓非自身のそれについて、どうとも思ってはいなかった。しかし、秦に来て贏政や李尚にはひどく心は動かされた。それがのちの悲劇に繋がることも知らずに……。

   さて、その李尚はというと、韓非の書いた文を読んであまりにも驚いた。普段、吃りながらたどたどしく喋る韓非からは想像ができないほど、彼の文章は滑らかで読みやすく眼が離せない。まるでこのような美しい文章が書けるからこそ、上手く話すことを天が禁じたのではないかと思う程だった。
 李尚はついつい夢中で読んでいたが、はっと我に返り、韓非を見た。彼は少し困ったように口許に淡い微笑を浮かべている。
「こ、これは、失礼いたしました」
「あ、いえ、これを……」
 韓非が差し出したのは、木箱であった。中には韓王に当てた書簡が入っている。李尚はようやく自分がここにいる理由を思い出した。父王に書簡で現状を知らせたいので、書簡を韓に届けてほしいという彼のために、その書簡を韓の送る手続きを自分が引き受けると申し出た。そして、その書簡が完成するまで待っていたのだが、少し退屈になり、文机の近くに積み上げられていた韓非の書いた書を見てもいいかと訊いた。すると、韓非は少し驚いた表情を見せてから、見てもいいと言ったので、韓非が書簡の山から取り出した一つを受け取ったのだった。
「公子様の文章はあまりにも美しいので、つい眼が離せなくなってしまいまして……申し訳ございません。これが、韓王様に送る書簡でございますね」
「あ、ああ……」
 李尚は韓非に書を返すと、今度は両手で韓王に送る書簡を恭しく受け取った。
「確かにお預かりいたしました」
 韓非は頷くと、再び文机に戻ろうとしたが、
「あの、公子様」
 という李尚の声に振り返った。
「あの……」
 李尚は戸惑った顔を見せ、言葉を引っ込めようとしたが、意を決したのか、
「公子様はもうすぐ韓に戻られるのですか?」
 とおそるおそる訊いて来た。韓非は言葉に窮した。父である韓王は韓非は戻ってこなくても特に何とも思わないだろう。今にように、秦との友好的な国交のため韓非は秦にいることが必要であれば、国に戻ることを禁じるだろう。しかし、韓非自身は贏政に仕える気はなかった。自分は庶子だが韓の公子であり、やはり韓の発展のためにこの才を捧げたいのだ。
「そ、それは、何とも……し、秦王が、どうされるか……」
 韓非は視線を泳がせながら言った。どのように韓非が考えていても、贏政の許可なくばこの国を去ることはできないのだ。もし勝手に帰国して機嫌を損ねてしまえば、弱小な韓などあっという間に滅ぼされてしまうだろう。
「確かに……」
 李尚はそこで一旦言葉を切った。二人の間に気まずい沈黙が下りた。韓非はどうしたものかと内心困っていると、李尚は伏せていた顔を上げ、真っ直ぐ韓非を見つめた。
「もし……もし、公子様が韓に戻られるならば、わたくしもついて行きたいと申し上げれば、どうなさいますか……?」
「え……」
 韓非は絶句したまま、彼女を見つめた。本音を言えば、連れて行きたい。だが、自国での今の自分の扱いは決していいものではない。おそらく彼女は失望し、母のように冷たい表情で自分を見つめ、やがて去って行くだろう。そう思うと、ますます言葉が出ない。李尚はすっと膝をおると、
「詮無いことを申し上げてしまいました。どうかお赦し下さい」
 そう謝罪すると、書簡を抱えて部屋を出て行った。残された韓非は重い足取りで文机に向かったが、筆はまったく進まなかった。

  「……これが韓王に宛てられた書簡か」
 二人の間に置かれている木箱は、韓非が李尚に預けられたものだ。文官らしき若い男が李尚に接触したときに持ちかけた話とは、韓非が韓王に書簡を送ることがあれば、それを送らずにこちらに渡してほしいという内容だった。話を持ちかけた時は迷っている様子であった。だが、これを渡しに来た時の顔は平静を装っていたが、怒りを隠しきれていなかった、大方袖にされたのだろう、と文官からの報告を受け、姚賈(ようか)は下座に座っている李斯にそのままを話した。
「あの女は欲深い。韓の公子に取り入ろうとして失敗したらしい。でなければ、このようなことはすまいよ」
「そうですね。ところで姚賈殿、これをどうするのかあの女は訊いてはこなかったのですが?」
 その問いに答える前に姚賈は杯を置いた。彼は秦の上卿であり、客卿(秦以外の出身の大臣)である李斯とはそれなりの交遊関係があった。
 以前、秦国の者以外の者は携わせるべきではないという話が持ち上がり、贏政もそれに賛同しそうになったのだが、楚出身の李斯はその意見を真っ向から否定した。そもそも春秋の時代より、出身国以外の者を重用に発展した国はいくもあり、また秦も例外なく他国の優れた人材を採用しており、それが今日の発展に繋がったといっても過言ではない。李斯は贏政や群臣たちの前で熱弁を振るい、贏政は「李斯の言う通りである」と納得し、李斯は増々重用されるようになった。  姚賈もその様子を見ており、法家として李斯の才は非常に優れたももだと感心した。ゆえに秦のこれまで以上の発展のためには李斯の才が必要だと常々考えていた。しかし、そこに韓非が韓より招かれた。
 贏政は韓非の書にいたく感激し、韓非と交遊ができるのであれば、もはや死んでもよい、とまで言ったらしい。李斯と同門で法家として非常に優れていると訊いているが、必要以上に他者と交遊することをしない韓非に、姚賈は法家として優れてはいるが共に政事に携わるのは難しいのではないかと考えている。ゆえに、姚賈は李斯が必要以上に韓非を警戒しているのが不思議でならなかった。
「訊いてはきたが、適当にあしらって来た。しかし、あのような気の弱そうな男が李斯殿の敵になるとは思えぬが」
「いえ、それは違います。姚賈殿。わたしの才など韓の公子と比べれば、まったく孺子のようなものです。我が師である荀子は彼の才を認めておられましたし、わたし自身もわかっていました。ですが……」
 家人には今度のことで助力してくれた姚賈をもてなすために上等の酒を用意させたのだが、こういう話をしていると、旨いはずの酒も不味く感じられる。李斯はまだ酒の残っている杯を置いた。
「ですが、わたしとて末席ではありますが、この秦の政事に携わってきました。公子の方が優れていると分かっていても、譲れませぬ。公子にこのまま秦にいて頂いたほうがよいのかもしれませんが、それでもわたしは」
「いや、李斯殿。政事は純然な才だけではどうにもならぬ。ときには他者と蹴落とす覚悟が必要だ。だが、公子にはそれがない。もし公子はこの秦の法に携わることになったとしても、商君以上に悲惨な目にあうだろう。わたしは李斯殿こそが、この秦のこれまで以上の発展に必要な人物であると思っている。それは、此度のことで分かってもらえたと思うが」 「ええ、それは十分に。感謝しております。姚賈殿」
 李斯は頭を下げた。自分が表立って動くとなれば、同門である韓非がその動きに感づく可能性がある。ゆえに出世欲のある姚賈に頼んだのであった。

   李斯は弁が立つだけでなく才もあったため、荀子を師事する者たちからも一目置かれていたのだが、人を避け、一人で書を読んでいる韓非のほうが優れていたことは認めたくはないが、分かっていた。また、韓非は庶子だが、公子である。貧しかった李斯は、なにゆえあのような吃音の陰気な男が高位の生まれで何不自由なく暮らしているのに対し、自分は貧しい家で生まれ、苦労を強いられねばならぬのか。李斯はそれが不満でならなかった。
 しかし、李斯はただ韓非を羨み不平不満をまき散らしたりせず、呂不韋の近侍になって秦に入り、呂不韋は失脚したあとは贏政にその才を認められ、重用されるようになった。そのため、李斯は贏政から相談を受けることがあるのだが、最近では、贏政から韓非を如何にして秦に仕えさせるか、意見を求められるようになった。
 李斯はこればかりは本人も意思であり、同門といってもそれほど親しくなかった自分にはどうすることもできない。また、彼は庶子ではいえ公子という立場上、祖国を捨てることに躊躇いがあるのではないか、とそのようなことを言うと、贏政は黙って眉根を寄せた。あの顔はまだ諦めていない。そもそも贏政という男は気に入ったものは手入れなければ気が済まない性格なのだ。また非常に頭もよいため、なにかしら考えているに違いない。そう思うと、李斯は途端に焦り始めた。
 もし韓非が寵臣となれば、きっと自分は贏政にとってそれほど重要な存在でなくなるだろう。せっかく此処まできたのだ。それに、今の地位で終わるつもりはない。ゆくゆくは丞相の地位に就く。そのための労苦など厭わない。行く手を阻む者があれば、策によってこれを速やかに排除する。これは類い稀な才を持つ秦王贏政を戴く秦の政治家として生き抜くために必要なことなのだ。李斯は姚賈が手に入れてくれた韓非の書簡を一瞥したあと、杯に残った酒を飲干した。

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