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言霊・第三話 秦王贏政

 史記の秦始皇本紀では、後の始皇帝である贏政(えいせい)の風貌を以下のように書き記している。
───秦王為人、蜂準、長目、摯鳥膺、豺聲、少恩而虎狼心。
 秦王政の風貌は、鼻は高く尖ってて、眼は切れ長、胸は鳥膺(鷹のように突き出ている)、そして声は豺(やまいぬ)の様だという。また、恩を感じる事などほとんど無く虎狼のように残忍であるという意味である。
 上座に座る彼はまだ二十代でありがながら、威風堂々としており、身に着けている上等な絹の服の襟には凝った金の刺繍が施されてる。美丈夫とは言い難い容貌をしているが、伝え聞いたほどの恐ろしい容貌ではなく、油断のならない鋭い目付きをした青年王、という印象を受けた。
「せっかく韓の公子自らが正使として我が秦まで来られたのだ。我が方も、それ相応の礼を尽くさねばならぬな」
 ゆったりとした口調で言うと、贏政の近くにいた上卿(大臣)の一人が、
「御意にございます」
 と言って、まるで最初から打ち合わせたかのように足早にその場から離れた。韓に対する宣戦布告を取り下げるつもりなのだろうか。あまりにもあっさりと事が運んで行く事に、韓非は驚いた。いや、王たる者こそこうあるべきなのだろう。贏政は韓非を見た。韓非は慌てて床に両手と額をつけた。秦の宣戦布告を取り下げるように願い出ること。これが自分に課せられた使命であった。まったく弁が立たないというのに、その任を果たすことが出来たのだ。これ以上嬉しいことはない。
「あ、ありがたく、存じます。その……」
 韓非はなるべく声を張って礼を述べた。さらに言葉を継ぐべきなのだろうが、言葉が出てこない。やはり、衆目に晒されると、己の中にある想いを言葉にすることは困難いなる。まともに礼を述べられただけでも、まだいい方かもしれない。韓非は顔を上げ、視線を左右に彷徨わせた。秦の臣たちの視線が自分に集まっている。数多いる臣達の後ろで誰かが囁き声で話しているのを韓非は素早く感じ取った。韓非があまりのも話さないことについて、不信に思い始めているのかもしれない。だが、贏政が立ち上がったため、声は静まり視線は一斉は贏政の方に向かった。
「さて、韓の公子におかれては、此処までの旅路でさぞやお疲れであろう。講和がなった今、我らは同盟国である。今日のところはこれまでとして、しばらくの間この秦に留まって頂き、我が国を見て頂きたいものだが、如何であろうか」
 その申し出を韓非がたどたどしい言葉で受けると、今日の謁見はこれで終わりとなった。
 贏政の言葉に誰も口を挟まない。群臣たちは韓非に興味がないのか、または贏政の気紛れに慣れているのだろうか。それはともかく、謁見は無事に終わり終わり、韓非はほとんど喋ることなく宿舎に戻ることとなった。


 最初に案内してくれた若い文官が謁見の間の外で待機しており、
「では、宿舎まで先導させて頂きます」
 と言って歩き出したので、韓非はほっと安堵の溜め息を漏らした。秦の国都である咸陽城は、秦王政は住まうだけあってさすがに広い。無論韓の城が小さいというわけではないが、慣れていない城だと迷うことがあるかもしれない。韓非は素直についていくと、途中で角を曲がり、初めてみる回廊の出た。
 此処からは中庭に出られるようになっており、綺麗に手入れがしてある。四季折々の花を咲かせるように、欠かさず手入れがなされているのだろう。中央には池があり、石で出来た橋がかけられている。その池のすぐ側に四阿があり、誰かがこちらの背を向けて座っていた。韓非はその背を見て、誰かすぐに分かった。圧倒的な存在感は後ろを向いていても分かる。秦王だ。
「あ、あの、これ、は……」
「さ、あちらに一席設けてございます。どうぞ」
 そう促され、韓非は回廊を出て庭に入り、橋を渡った。座っている贏政は振り返って韓非の姿を見ると、自分の正面の席をすすめた。
「公子は人は多いところは苦手とお訊きしたのでな。ここならば、我らしかいない。と言いたいところだが、あちことに護衛兵が身を隠している。おれを守るためらしいが、鬱陶しいことよ」
 贏政は苦笑を浮かべて言った。砕けた言葉遣いに驚いていると、
「すでに知っていると思うが、おれは幼い頃、趙にいた。人質としてな。そのときはこのような言葉遣いで良かったのだが、十三で王に即位したときに言葉の使い方を習わされた。王たる者、市井のような言葉は使わぬようにと言われたが、年長の上卿達に言われたが、この方が楽なのでな」
「……」
 呆気に取られている韓非の前に杯が置かれ、酒が注がれた。酒を持ってきた女官に下がるように命じると、贏政は話し始めた。
「公子が書かれた書を読んだ。あまりにも素晴らしい内容で、この書を書いた者と交遊することが出来れば死んでも良いと思う程にな」
「そ、その、ような、勿体ない、お言葉を……わ、わたしは」
「謙遜は良い。李斯にも聴いた。荀君(荀子)の門弟の中でも公子の才は群を抜いていたと。あの書を見れば、稀な才の持ち主であることが分かる。また、その才はこの混迷の世にて活かされるべきだ。だが、韓王や他の公子はどうだ。そなたが庶子で吃音であるというだけで、ないがしろにしている。韓王に至っては苦言を受け入れず、耳障りの良い言葉を吐く者だけを側に置き、今の状況をまったく分かっていないのではないか。それは、王として怠慢であるとおれは思うのだが、公子が書状で何度も警告しているところをみると、公子もそう思っているのだろう」
 何故ここまで内情が知れているのか。韓非は驚きを隠せなかった。確かに、韓にも他国の人間が多くいる。それはどの国も同じことだ。だが、王室の内情をここまで細かく調べているとは。秦が軍事では他の六国が結束して対抗できるほどのものであるのに、間諜を放ってここまで調べる必要があるのだろうか。そのとき、ふいに秦王贏政の言いたいことを理解した。才人を集めているのだ。あることのために。
「し、秦王は、その、もしや、六国を……」
 滅ぼすおつもりか。そう言う前に贏政が言葉を遮った。
「おれは六国を併呑し、一つの国にするつもりだ。そうなった暁には、法を見直すべきだと考えている。そのために、そなたのような優れた法家が必要なのだ」
 ───やはり、秦王は我が韓を含む六国を滅ぼすつもりなのか……。
 そのような噂は韓非も聴いていた。各国を回る縦横家(遊説家)たちもそのことを各国の君主に訴え、同盟などの話しを持ちかけている。たしかに秦は他国よりも逸早く富国強兵の法を採用し、その成果は現れている。しかし、たった一代で併呑出来るかどうか難しいのではないかと韓非は思っていたが、贏政を眼の前にして、それは可能であると思った。
「韓の公子であるそなたには自国が滅びることを良しとはしないだろう。だが、その前によく考えてほしい。韓でそなたは重用されているのか? そなたの才を活かすことが出来ているのか?」
 そう問われ、韓非は俯いた。他の兄弟たちには吃音を莫迦にされ、父王には進言をまったく受け入れて貰えていない。もし後嗣であればまた違っていただろうが、万に一つも自分が次代の韓王に指名されることはないだろう。
 中庭を横切る風が、口を閉ざしたままの二人の間を駆け抜けていく。贏政は軽く溜め息を吐き、立ち上がった。
「急なことでなかなか決心がつかぬだろう。先に述べたように、しばらくこの国に滞在されると良い。この国を見て、それから判断を下しても遅くはあるまい。ただ、おれはそなたの才をこのまま散らせたくはないと思っている」
 贏政はそれだけ言うと、この場から立ち去った。
 拒否をすれば、韓非は韓に戻ることになり、そのあと秦王は韓に攻め込んでくるだろう。そうなれば、王室は潰される。要職についていない韓非は庶民に落とされるくらいで済むかもしれないが、どうやって生計を立てれば良いか分からない。結局生きてはいけないだろう。だがそれより先に、自分はどうしたいのか、分からなかった。贏政は王として魅力的な人物だ。李斯が仕えるのも無理は無いと思う。自分はどうだろう。このように誘いを受けるなど夢にも思わなかっただけに、なかなか頭の中が整理出来ない。どれほど時間がたっただろうか。はっと気が付くと、先ほどの文官がいた。
「では、改めて宿舎にご案内をいたします」
 韓非は頷くと、ぼんやりした表情で彼のあとをついて行った。


 後宮で一人の女を抱いたあと、そのまま後宮で休まずに贏政は自室に戻った。今宵の相手をつとめた女はなかなかも美貌で躯も悪くはなかったが、贏政はたいして心が動かされはしなかった。
 長い歴史の中で、幾人もの王が女に溺れ堕落し、国を滅ぼしている。だが、自分は決してそうはならない。一見華やかに見える後宮では誰が贏政の寵姫となるか水面下で争ってるだろうが、情欲の強い母親を見て育った贏政は、誰かを寵愛することはなかった。おそらく、これからもないだろう。それは、色欲に溺れることを嫌悪しているからだ。
 贏政の母の趙姫は父の子楚が亡くなったあと呂不韋と関係を戻していたが、呂不韋は己の保身のために別の男を彼女にあてがった。やがてその男との間に子ができ、あろうことか母親は贏政を暗殺し、幼い子を王に据えようと画策した。おそらく趙姫は己のいいなりになる王がいた方が自分の欲を満たすことができる。そう考えたのだろう。無論、暗殺計画は杜撰なもので、贏政には筒抜けだったため、贏政は母親の愛人を殺し、そして、父親が違う兄弟を殺した。そのとき、趙姫は二人の子を己の背で庇いながら、
 ───この子はそなたと兄弟なのですよ。それなのに、命を奪うと言うのですか。
 そう言って命乞いをしたが、それが贏政の神経を逆撫でした。何が兄弟なものか。自分の知らない間に男を作り、おれを殺そうとしたくせに。そう叫びそうになった。しかし、贏政は冷たく母親を見下ろしただけで何も言わず、近くにいた兵に兄弟を始末するように命じた。無論愛人とその一族を殺し、趙姫を咸陽から遠ざけた。
 贏政は溜め息を吐くと、文机に積まれている韓非が書いた書を手に取った。所詮、人などそんなものだ。血が繋がっていようとも己の欲のためならば、我が子でも殺すのだ。後に「韓非子」と呼ばれる書には、人は損得勘定で動くものだ、という思想があちこちに見える。韓非の書は法家として素晴らしいものであったが、それと同時に贏政の人に対する感情を肯定していることに、安堵をさせてくれる。損得で動くからこそ、数奇な運命にて王になった自分は実の母親にすら、殺されそうになるのだ。自分が悪いわけではない。
 この時代、儒家の教えは広く浸透しており、その儒家の教えでは親に尽くさねばならないとある。ゆえに、贏政は母親を殺すことはなかった。そのようなことをすれば、臣達が反感を抱くかも知れないからだ。
 贏政は文机の前に座ると、書を広げた。韓非はここに来るまでに「韓非子」の全編を持っていたわけではなく、途中までしか手にいれられていなかった。韓非が秦に来るときは、彼の著書全てを持ってくるように伝えておいたのだが、韓非はその言葉の通り、書きかけの書も含めて全てを持ってきた。今贏政の眼の前に積まれている書は、それである。
 彼の法家としての思想と方針は、贏政がぼんやりと頭に描いていたそれとよく似ていた。また、彼は非常に文章が上手かった。例え話を用いての説明も分かりやすく、頷ける内容となっている。この才、是非我が物としたい。才ある物を有効に使うの優れた王の条件であると贏政は考えている。
 その昔、韓には申不害という優れた宰相がいた。彼の政治手腕により秦は韓に攻め込むことは出来なかった。無論、申不害の才も素晴らしいが、彼を重用し使いこなすことが出来た王も優れていたのだろう。仮令、よい音を奏でる楽器があっても、その楽器を上手く奏でる者がいなければ、その楽器の真価は分からないままだ。自分ならば、韓非の才を上手く使いこなし、史上初めての広大な領土を持つ国家を作り上げることが出来る。贏政は韓非の書を読み進めながら、如何にして韓非を秦に留まらせるか思考した。

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