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言霊・第二話 旅路

 馬車が多く通る街道には自然と轍(わだち)ができる。轍とは、馬車の車輪によって出来る溝のことだが、一度それが出来てしまうと、馬車を使うものは皆その上を通ることになる。商売や遊説、その他様々に理由で馬車を使って国を行き来する者は多い。だが、国によって馬車の左右の車輪の幅が違うため、国を越えるときはいちいち馬車を乗り換えなければならない。
 不便といえば不便なのだが、戦の場合は簡単に攻め込まれないという利点もある。韓の国都である新鄭より秦へ使者として向かう韓非も、例外なく韓と秦の国境付近で馬車を乗り換えることになった。
 数台の馬車には、機嫌を取るための秦王への貢ぎ物の他、滞在期間が分からないため書物などを含めた日用品などが荷台に積まれている。むろん、公子である韓非が一人で出かけることはなく護衛や身の回りの世話をするものが同行しているため、韓非が荷物を移す作業を行うことはない。韓非は皆の邪魔をしないよう、近くにある木の根元に腰を下ろし、流れ往く雲を眺めていた。
 ───雲が流れるのが早い。この分だと、雨がふるやも知れぬな……。
 書きかけの書物なども荷の中に入っている。それが濡れなければ良いが……とぼんやり思った時、韓非は秦王が自分の書を読み、その内容を褒めていた父から聴かされたことを思い出した。
 この時代、印刷技術はおろか、紙も発明されていない。紙が発明されるのは後漢時代であり、木版印刷は唐王朝の時代である。つまり、誰かが韓非の書を書き写し、それを他の誰かがさらに書き写し……を繰り返して、何かの切っ掛けで秦王に献上されたのだろうか。その辺りは調べようがないが、とにかく秦王が読んだのだ。おそらくは皆の前で意見を求められるかもしれない。ただでさえ、人前で緊張するのにどうすれば良いだろうか。そう考えると、韓非の顔は天候よりさきにどんよりと曇っていった。
 彼の顔立ちはどちらかと言えば母親似で、整った顔立ちをしている。とくに目許などが優し気で印象的だ。だが、血色の悪い肌とおどおどした表情が、彼の顔立ちの良さを悉く消し去っていた。吃音を気にするあまり、他人の眼を気にしてしまう。それはどうしようもないことだったが、全く理解者がいないわけではなかった。
 副史として今回の旅に同行している張昂は韓非の書く書が好きで、韓非の数少ない理解者であった。張昂は荷の積み替えを手伝っていたが、途中でそれから離れて近くに流れている川に水を汲みに行った。そして木陰に座っている韓非に近づき、
「公子。喉は渇いておられませんか?」
 と言って、水の入った竹筒を差し出した。
「す、少し渇いた。貰おう」
 韓非は水を二口ほど飲んだ。冷たい感触が、するりを喉を流れて行く。
「退屈されているようですね。もう少しで作業は終わりますので、しばしのご辛抱を」
 張昂が韓非の顔色を見ながらいうと、韓非は素直に頷き、もう一口水を飲んだ。


 張氏は才智のある者がよく産まれる血筋なのか、宰相を務めた者も何人もいる、韓の中では指折りの名家である。彼は嫡流ではないが、親戚関係にあたる張平の嫡子に、のちに楚漢戦争で活躍することになる張良がいた。この頃はまだ十代で、この先のことなど何一つ知らず、遊学したり武芸を習ったりしている時期である。余談であるが、戦国時代はまだ姓と氏がまだ区別されていた。楚漢時代になると、姓と氏は曖昧になり、ほとんどの者が不明になっている。諱と字をつける風習はこれ以降も長く残るのだが、姓と氏については残らなかったようだ。
 ちなみに、姓とは一族を示す名であるため変わることはないが、氏は保有する邑などで変わることがある。韓非は韓が氏で、姓は姫であり、張昂は張が氏で、姓は姫(※諸説あり)である。姫姓は周王室の国姓であるため、遠い昔は同じ一族であったのだ。韓非はこれから会いに行く秦王政は張氏で姓が贏(えい)なのだが、一般的に贏政と呼ばれる事が多い。
「この雲の流れを見ると、夕方には雨は降るかもしれませんね。荷の積み替えが終わったか、見て参りましょう」
 張昂はそう言って立ち上がると、馬車の方へ向かった。彼は正使を輔佐する役目なのだが、韓非の身の回りの世話も彼が率先して行っている。韓非のあまり余人を近づけたがらない性格を理解しているからだ。
 ───庶子であるが韓の公子であり、あれほどの書を書ける程の才もお持ちだ。通常ならば国政に参加されてもおかしくはない筈。だが、あの吃音が公子の自信を奪い、周囲も公子の才を知ろうともしない。哀しいことよ。
 敬愛している韓非にはもっと自信を持ってもらいたい。何とか秦に韓への宣戦布告を取り下げさせ、さらに秦王政と懇意になれば、きっと韓王安も韓非を認め、今まで無視されてきた彼の意見を取り入れる可能性がでてくるかもしれない。
 張昂はなんとしても公子にこの役目を成功させ、今まで莫迦にしていた親兄弟達、周囲の者達に公子の才を認めさせる、と誓いを新たにした。


 国境を越えて、それから秦の国都である咸陽(かんよう)に向かう。そこに、二十代の青年王の贏政がいるのだ。
 贏政は今でこそ国主として裕福な暮らしをしているが、その幼少期は悲惨だった。この時代に習わしとして、他国に自国の公子を人質として差し出す事があるのだが、彼の父である子楚は趙に人質として送られていた。実際人質となるような人物は、王位継承権がかなり下の者である。つまり。もし趙に攻め込んで怒った趙が彼を市中で処刑しても何ら困らない、ということなのだ。むろん、子楚のそのことは分かっていた。そのため子楚は自暴自棄な毎日を過ごしていた。その彼に眼を付けたのが商人の呂不韋(りょふい)である。
 呂不韋は商人として成功を治めていたが、さらにその上を行くために子楚に惜しみなく投資し、その結果、子楚は秦の王になった。だがその在位期間は極めて短く、あとを継いだ贏政は僅か十三歳であった。この年の子供に国を治められる筈もないので、当然後見人が必要となる。呂不韋は幼い贏政の輔佐をするため秦の宰相という、臣の最高位についた。いくら金を積んでも簡単に得られない地位である。しかも、贏政は呂不韋の血を引いていた。
「秦王が、秦王室の血を継いでいないとの噂がありますが、本当でしょうか……」
 馬車に揺られながら張昂が韓非に問うと、韓非は困ったような顔を見せた。他国にもこのような噂が流れているのだから、当の本人の耳にも入っていることだろう。
 その噂によると、子楚が呂不韋の愛妾に一目惚れし、彼女を妻にしたのだが、そのとき既に彼女は呂不韋の子を身籠っていたらしい。むろん、それは噂であり真実かどうか分からない。仮令真実だとしても、贏政は正統な経緯で王座に即いているので問題はない。だが、贏政は成長するにつれて呂不韋を疎ましく感じるようになり、彼を宰相の地位より追い出し、さらに自決させていた。また、彼の母親も稀に見る情欲の強い女性で、子楚が無くなったあと愛人を作り、二人の子を儲けた。しかし、それを贏政に隠し通せる筈もなく、母親の愛人は生き残るため贏政を暗殺しようとするが失敗し処刑され、贏政は父親の違う二人の兄弟も容赦なく処刑し、母親を咸陽から別の地に移した。このような環境で、冷酷な人格が形成されてもおかしくはないだろう。
「辛かった、だろう……」
 韓非は思わずそう呟き、自分の境遇と重ねあわせた。自分は吃音であり兄弟に馬鹿にされたことは多々あるが、公子として何不自由なく暮らしている。しかし、彼が趙で人質として暮らしているときに秦が趙に攻め込み、殺されかけたらしい。秦の王族でありながら、秦に殺されかけたといっても過言ではない。そして今度はその秦の王となったのだ。彼は自国に対し、どのような思いを抱いているのだろうか。韓非は馬車に揺られながら考えたが、一向に答えは浮かばなかった。


 この時代、都市は城郭から成り立っている。簡単に説明すると、まず城が在り、その周囲に家臣や民達の家が在り、それらをぐるりを郭は囲んでいる。東西南北に門があり、敵に攻められればこの門を堅く閉ざし、篭城する。つまり攻め込まれれば民達も否応無しに巻き込まれることになる。
 韓非達は咸陽に到着すると、城に向かった。秦王は忙しい身であるから今日は謁見はしないだろうと思っていたら、秦王は韓非の到着を待ちわびていたらしく、韓非たちが滞在するためのあてがわれた宿舎に知らせが届いた。韓非は慌てて身支度を整えると、秦王の待つ主殿に向かった。


 聴政のときに使用する間には、隅々までずらりと臣下が並んでいる。韓非は案内されて入室すると、すぐに両の膝を折り、額を床に付けた。すると上座から、
「よくぞ参られた。顔を上げられよ」
 と声をかけられ、おそるおそる顔を上げ、韓非は贏政の顔を見た。
 遥か遠くは夏から殷、周王朝に変わり、様々な王が生まれた。長く続いた周王朝が後期になるにつれ有名無実になってしまったが、斉の桓公や晋の文公などが名を連ねる春秋五覇や、君主ではなかったが有力な政治家で沢山の食客を抱えて、各国に多大に影響を与えた戦国四君など優れた者達が歴史に登場し消えて行った。そのめざましい活躍は長く後世に語り継がれ、さらに数々の名言を残したが、誰一人として中華を統一するものはいなかった。おそらく、その発想すらなかったのかもしれない。
 ともかく、のちに史上初めて中華統一を成し遂げて「始皇帝」と名乗ることになる秦王贏政と、法家の代表としてその名を残すことになる韓非が、このとき初めて相対したのである。

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