「困ったことになったな」
 藺相如は無意識にぼそりと呟いた。彼の妙なところは、困った、と言ってもそうは見えないところである。舎人も下女も寝静まった夜半、藺相如は一つだけ灯している燭台を文机の近くに寄せて書簡を読んでいたのだが、さっぱり頭の中に入って来ない。それほどまでに頭を悩ませる事件の発端となったものは「和氏の璧(かしのへき)」という名の希少価値の高い宝玉であった。

 「璧」とは漢字の中に「玉」という字があることでも分かるように、玉の一種である。薄く環状になるように磨いたもので、値は物によって様々であるが、和氏の璧はかなり高価なものであった。
 この和氏の璧はもともとは南方にある楚という国のものであったが、ある経緯により趙の君主である恵文王の手元へとやってきた。璧は馬車の飾りなどにも使ったりするが、これはとてもそんなものには使えない。恵文王はそれを数日の間うっとりと眺めたのち、宝物庫に大切に仕舞っておいた。
 趙という国は、中国大陸のだいたい真ん中より北あたりに位置する。山岳地帯を含むが国土は広く、首都である邯鄲の東に河水(黄河)がある。この趙の西方に秦という強国が隣接しているのだが、秦の君主である昭襄王がどこから情報を嗅ぎ付けたのか、和氏の璧が楚から趙に渡ったと知ると、
「是非譲って頂きたい」
 という内容の書簡を恵文王に送ってきた。無論ただではない。十五の城と璧と交換したい、という条件付きであった。
 ただの璧なら数あれど、和氏の璧ほど見事なものは中々手に入れることは出来ない。そんな申し出ははっきりと断りたいのだが、そうもいかない事情があった。
 秦という国は中国の戦国時代を代表する七国の中でも強国であり、あまり無下に出来ないのである。恵文王の下には廉頗や趙奢といった歴戦の将帥がおり、さらに恵文王の父である武霊王の政策により軍事面はかなり強化されたが、それでも戦って必ず勝てる相手ではなかった。とにかく敵の回すと厄介な相手であるため、出来れば穏便にすませたいと恵文王は考えているが、こちらがそう思っていても向こうがどう思っているかは分からない。つまり、これを切っ掛けとして戦争を起こしたいという意図があるかもしれないのだ。
「さて、どうしたら良いだろうか」
 恵文王は上卿(大臣)達を集め、ほとほと困り果てた口調でそう訪ねた。皆それぞれ意見を言い合ったが、だいたい中身は似通っており、一人が代表して進み出ると、
「畏れながら申し上げます。まことに惜しいことではありますが、璧をお譲りになされたほうが宜しいかと。ですが、相手はあの秦です。璧を取られ、さらに十五城も渡すなど約した覚えは無い、ということになるやもしれませぬが」
 と沈みがちな声で言った。なるやもしれぬ、と言っているが、十中八九、そうなるだろう。秦の君主が約束を守らないということは、趙だけでなく他国にも知れ渡っている。それに付け加え、十五城と交換という破格の条件がさらに信憑性を低くしていた。
 城は都市を意味する。いくら希少価値の高いものであろうとも、しょせんは璧である。それを十五城もの領地と交換するというのは考えられない。あまりにも気前が良過ぎる。これには恵文王にもまったく異論はなく、
「で、あろうな」
 溜め息を吐きつつ答えた。恵文王は壮年であり、中肉中背で決して美形ではないのだが、人の良さが顔に現れているのか、眸はいつも穏やかな色を映しており、温厚な気性であることが分かる。だが、優柔不断でもあり、このときも中々決することが出来ず迷っていた。
 最終的には秦に璧を渡すことに決まったが、誰を使者に立てるか、という段になると、また恵文王は唸った。約束を反故にされた挙げ句に斬り捨てられる可能性もある。そんな危険な使者の役を務めたいという、命知らずな臣はこの場にはいなかった。
 後日それを知った宦官の長である繆賢が進みでて、是非に藺相如をお使い頂きたい、と恵文王に申し出た。初めて聴く名である。恵文王は藺相如なる者がどれほどの者か問うと、繆賢は一礼してから王の問いに恭しく答えた。
「私の舎人でございます。私がある過ちを犯したときに、叱責を恐れるあまり燕に亡命をしようとまで考えたのですが、彼の者の助言によりこうして趙に留まることが出来ました。見識が広く胆力もありますので、きっとこの務めを果たして来るでしょう」
 恵文王はまたもや考え込んだ。璧を取られた挙げ句領地も貰えなかったということになれば、恵文王は天下の笑い者になるだけでなく、これ以後も秦に侮られることになるのは明白である。この役を務めるには、相応な機知と胆力を持った者しか無理であろう。それは分かっているが、他にこの役を務められる者の心当たりもなく、名乗りを上げるものがいなかった。ここは繆賢の言葉を信じるほかないだろう。そう思った恵文王は藺相如に参内するように申し付けた。一方の藺相如は繆賢よりこのことを知らされ、早速恵文王に拝謁した。恵文王は藺相如と少し言葉を交わしたあと、
「やはり、璧を渡すべきだろうか」
 と問うた。その言葉と表情に、秦に屈服したくはないという恵文王の心情が垣間見える。藺相如はその気持ちを正しく読み取り、
「秦を敵の回すのはよくありません。ですが、秦王が果たして約束を守る方であるかどうかと問われれば、わたしも他の方々と同意見でございます。秦に参りまして秦王に拝謁すれば、騙しとろうとしているのかどうか、自ずと分かるでしょう。もし秦王が領地を割譲する意思がなければ、この藺相如が和氏の璧を必ずや王の下に戻してみせましょう」
 とはっきり言った。恵文王はこの言葉に頷くと、藺相如を正式に秦への使者に任命したのであった。

 道中これと言った問題も無く秦へ入った藺相如は、そのまま真っ直ぐに首都へ向かった。秦の首都は咸陽という。
 咸陽をぐるりと囲む郭と呼ばれる城壁を抜けると、臣下と庶民の居住区域に入る。王と妃妾たちはというと、城が居住区域である。この城は郭内にあるが真ん中ではなく、四方のどこかに寄せて立てられている場合は、直接郭の外へ出たり、郭内に行けるようになっている。これは秦の首都だけではなく、規模や城の位置は違うが他国の都市もだいたい似たような作りであった。余談だが、もし敵に攻められたときは門を固く閉じて防衛戦を行うため、郭内に住んでいる市民もそのまま防衛戦に巻き込まれることになる。
 藺相如は咸陽に到着すると、早速衣服を改めて秦王に拝謁を申し出た。秦王は待ちわびていたらしく、ほとんど待つこと無く謁見の間へと通された。
 和氏の璧を見た秦王は喜色を満面に表し、璧を上から下から眺め回した。さらに妃妾たちをこの場に呼び、自慢するように和氏の璧を見せた。妃妾たちは皆そろいも揃って眼を見張るような美女ばかりである。長く艶やかな黒髪を結い上げて象牙で出来たかんざしをさし、女性らしい曲線を描く肢体には、色鮮やかで美しい刺繍の入った裾の長い衣服を纏っている。彼女達は秦王から璧を渡されると、その美しさに魅入られたように溜め息を漏らしつつ璧の美しさを言葉に載せて表現した。秦王はこれを見て大変満足そうであったが、藺相如が長嘆息をすると、今まで存在を忘れていた彼の方へ顔を向けた。気付くようにしたのだから、そうでなければ困る。藺相如は秦王の視線に気付きつつも、顔を伏せたままでいた。
「はて、如何したか?」
 そう問われ、ようやく藺相如は顔を上げた。
「まさか、このような扱いを受けるとは思いもよらなかったもので、つい溜め息が出てしまいました。お赦し下さい」
「このような扱いとは、どういうことじゃ?」
 秦王は待ちに待った璧が来たということで浮かれているため、藺相如の言いたいことなどさっぱり分からない。
「では、畏れながら申し上げます。我が王におかれましては、和氏の璧をそれはそれは大事にされていました。されど、他でもない秦王様のために、璧を手放す決心をなされたのです。このとき、王は五日間斎戒をなさいました。むろん、使者たるわたしも同様にしてから秦に参りました。ところが、あろうことか秦王様が和紙の璧をそのように軽々しく扱われるとは思いもよらず、まことに残念でなりませぬ。趙は礼節を重んじる国でありますれば、わたしはなんと言って復命すれば良いのか……」
 藺相如はまたもやわざとらしいほどの大きな溜め息をつき、肩をがっくりと落とした。武を専らとしていないためそれほど逞しい体躯ではないが、身を守れる程の武術くらいは身につけており、決して華奢ではない。涼し気な眸が印象的であり、全体的に整った顔立ちをしている。派手な印象はなく、年齢よりも落ち着いているように見えるこの外見に騙される手合いが多いのだが、秦の若い妃妾たちも例外ではなかった。
 これが年老いた何の魅力も感じられない男であれば、嫌味たらしい、としか思わないだろう。だが、容貌の整った男が自分たちの礼の欠いた行いに失望している様子を見て、彼女たちは知らず知らずのうちに恥を感じてしまったのか、素早く秦王に璧を返して退いた。
 先ほどの賑やかな空気が一変して、妙に重苦しい空気に変わった。それというのも、藺相如が無言で秦王の礼節の無さを悲しみ責めているからである。自分は一国の、しかも強国秦の主である。このような面倒なことをいう若造などさっさと退出させればよいのだが、それをさせない何かが藺相如にあった。秦王は彼から来るこの奇妙な威圧感に耐えきれず、
「では、どうすればよいのだ?」
 と問うた。すると、藺相如はさらに進みでて秦王に近づいた。
「五日間の斎戒を終えられたのちに、正式にお受け取り頂きたく存じます。それまでは、この藺相如が璧をお預かりいたします」
「五日間か……。分かった」
 秦王は璧を差し出すと、藺相如はそれを両手で恭しく受け取った。
 璧を受け取るために五日間も斎戒をしなければならないことはない。それが趙の仕来りであっても、秦の仕来りではないのだ。そんなことはよくよく考えれば分かることなのだが、当の秦王はそれに気付いてはいない。藺相如は自分の手に璧が戻って来たことに安堵したがそれを表情には一切出さず、
「さすがは秦王様です。我が王も喜びましょう。では、五日後に正式にお渡しします」
 と言って平伏した。彼の口元が僅かに笑みの形に歪んでいることに、秦王もその左右の者も全く気付いていなかった。

 夕方、藺相如は護衛としてついてきた従者五人を部屋に呼んで並ばせた。右から左に流れるように見て、左から二番目の、まだ二十代には入っていないと思われる身軽そうな男を指名し、
「お前は樹に登れるか」
 と唐突に問うた。
「はぁ、一応登れますが」 
 全く意図が掴めていない彼がそう答えると、藺相如は深衣の合わせ目から布を取り出した。
 この時代に紙はまだ発明されていない。そのため書簡は竹簡か木簡を使用し、地図や図面のような大きなものは布に書く。大事な地図などは織り目の細かい上等な生地に描くのだが、藺相如が自分で用意した生地は、市場で比較的安価で売っている粗末な生地であった。彼は早速それを床に広げ、墨を含ませた筆を取った。
「今、わたしたちがいる部屋はこの辺りだから、ここから出て・・・」
 いつの間に調べたのか、藺相如は自分たちがいる客舎付近の略図をさらさらと書いた。それだけでも驚きなのだが、さらに、
「で、この辺りに塀に飛び移れそうな樹があった。多分、お前が登っても折れまい。お前は夜半にここを出て、この璧を趙へ持って帰ってくれ」
 と言ったので、従者達は驚きのあまり声を上げそうになった。一応趙王の使者であるため立派な客舎をあてがわれているが、門には絶えず門衛がいる。璧を持っているのが藺相如であるため、監禁されていると言った方が正しいだろう。さらに郭の四方に城門があるのだが、そこは夜のうちは閉じていて夜明けとともに開門される。趙に帰るには、まず夜半にこの客舎を出て、郭内のどこかに潜み夜明けを待ってから脱出することになるだろう。それは決して不可能ではないが、それよりも重大な問題があった。
「あの、確かに脱出は可能ですが、それをしたら……」 
 怖々という若者を年長の従者が片手で制し、藺相如に向かって膝をつき改めて問うた。
「そのようなことをすれば、貴方様は間違いなく首を刎ねられましょう。それでもよろしいのですか?」
「よくはないのだが、あの様子では領地の割譲はなかろうよ」
 そもそもこの取引を申し込んで来たのは秦である。割譲するつもりであれば、和氏の璧を確認した時点でその話が向こうから出されるはずであるが、それがまったくなかった。それどころかあのように騒いだのは、藺相如がその話を切り出すのを妨げるために行った節もある。信義を守らないという評判はどうやら本当であったようだ。
 年長の従者はしばらく考えてから、
「なるほど。確かにその様子では、貴方様が仰る通り、璧を渡しても領地も得られぬことは間違いありますまい」
 と言うと、藺相如は腕を組み頷いた。
「そういうことだ。和氏の璧を譲って欲しいと申し込んで来たのは秦であり、約定を違えるのであれば、非は向こうにある。領地を渡さぬというのであれば、こちらも璧を渡すわけにはいかぬのだ。それに……」
「それに?」
 どうせならあの佞奸な秦王に一泡吹かせてやろうではないか。藺相如はそう言って笑った。
 深夜、従者の一人がこっそり部屋を抜け出した。足音を殺して塀に沿って歩くと、確かに塀の近くまで太い枝を伸ばしている樹があった。璧はというと、落とさないように布を腹にしっかりと撒いて、腹と布の間に押し込んである。従者は腹にあるそれをもう一度手で触って確認すると、音を立てないようにするすると樹に登り、塀を越えて薄い雲からこぼれ落ちる月光を頼りに走っていった。

 五日間の斎戒をすませた秦王は、藺相如のために礼を尽くし宴席を設けた。選りすぐりの楽士とさらに複数の美しい舞手も揃えて盛大に宴を催すつもりであったが、藺相如は宴が始まると同時に、上座に座る秦王に深々と平伏すると、
「申し訳ございませぬが、和氏の璧はここにはございません」 
 と言った。恐れを見せず堂々としている藺相如とは反対に、秦王はその言葉が信じられず、思わず身を乗り出して声を荒げた。
「ない?それはどういうことじゃ」
「五日前、秦王様は璧を確認されても割譲については全く口にされませんでした。それゆえに約定は守られぬと知り、従者に璧を趙へ持ち帰らせたのでございます」
 昼夜問わずの強行軍であれば、秦の国境線を越えているはずだ。もし秦内にまだいるとすれば捕捉出来るが、国外に出られればどうしようもない。この時間を稼ぐため、藺相如は斎戒を五日間としたのであった。
 一方、秦王は璧を今度こそ手にすることが出来ると喜んでいたのに、それどころか璧はもうなく、さらに領地の割譲する気などないことをあっさり看破されていたと知り、すぐに言葉を発することが出来なかった。秦の群臣はこの状況をはらはらした様子で見ており、楽士や舞手たちは何事が起こったのか分からず立ち尽くしている。藺相如は顔を上げて居住まいを正すと、
「秦王様に対する数々の無礼、万死に値することは重々に承知しております。この藺相如、すでに覚悟は出来ておりますゆえ、如何様にもなされませ」
 そう言って、再び額を床につけた。秦王はこの小憎らしい男を、煮えたぎる湯か燃え盛る炎の中に放り込んでやりたかった。しかし、本当にそれを実行すれば、璧を騙しとろうとしたことが瞬く間に他国へと広がり、策を見破った使者を殺すとは秦王はなんとも狭量よの、と言われ天下の笑い者になってしまうだろう。この場にいた群臣の中には藺相如を死罪にすべきだと主張した者もいたが、
「もうよい。趙王が待ちわびておるだろう。早々に趙に帰るがよい」
 そう言って秦王は不満を述べる臣を制し、藺相如を解放した。

「さて、もう用は済んだ。皆、趙へ戻るぞ」
 そう言って客舎に戻って来た藺相如を見て、従者達はわっと声を上げて喜んだ。
「よくぞご無事で。藺相如様には勝算がおありだったのですね。恐れていりました」
 笑みを浮かべてそう言ったのは、あの年長の従者であった。他の従者達は早速帰国の為に荷物をまとめ始めている。
「まさかよ。秦王が約定を守ってくれれば、このような困ったことにならなかったのだがなぁ」
「そうでしたか。失礼とは存じますが、少しも困っていたようには見えませんでした」
 それに対して藺相如は答えず、自分より背の高い従者の顔を見た。年の頃は自分と同じか、少し年上くらいだろう。従者としてついて来るくらいだから、身分の高いものではなさそうだが、話す言葉が丁寧で聞き取り易い。ただの兵卒ではないだろう、と藺相如は思ったがそのことは訊かず、名だけを問うた。
「そういえば、まだ名を聴いていなかったな」
「これは失礼を致しました。楽淵と申します」
「そうか。では、帰りも頼むぞ」
 藺相如はそう言いながら、彼が佩いている剣に視線を落とした。

 和氏の璧は無事に趙へ戻っていた。若い従者は藺相如から貰った金子を使って郭内で秦の一般庶民が着る服を着替えたため咸陽を簡単に出ることは出来たが、あまりにも急いでいることを不審がられたのか、一度秦の関所で止められた。すると従者は、
「実は、趙にいる俺の兄がへまをやらかして、このままでは追放されるかもしれないんだ。主の奥方様は璧を好まれると聴いたから、ほら、この璧で奥方様に取りなしてもらうつもりなんだよ。このままだと兄は路頭に迷うことになる。早く行かせてくれ」
 と泣くように訴えた。戦国時代の特徴として、他国の人間が大臣などの要職に就くことは、それほど珍しくなかった。秦も他国の者を何人も重用しているが、有名なのは魏からきた商鞅であろう。彼は富国強兵を強く望んでいた当時の君主である孝公のために、大胆な法改正を提案した。秦が強国になったのも、この商鞅の考えた法が施行されたからである。この辺りの事情は関所を守る兵卒も知っているので、彼の兄が趙の誰かに仕えていることにまったく疑問を抱かなかった。それどころか、関所の守備兵は彼が見せてくれた璧を見て、
「ほう、なかなか立派なものを手に入れたな。これならなんとかなろう」
 と言って通してくれた。その璧がまさか和紙の璧であるとは、ただの兵卒に分かる筈もない。関所で止められたときの対処については、藺相如に言われた通りにしたのだが上手くいった。従者はほっと胸を撫で下ろすと、邯鄲へ急いで向かい、休む間もなく復命した。
 恵文王は戻って来た璧を手にしながら溜め息をついた。こうして璧が戻って来てくれたことは嬉しいが、藺相如が亡くなったことがまことに残念でならない。繆賢が言っていた通り、確かに機知と胆力がある若者であった。これほどの者はそうそうはいないだろう。そう思うと、自然と恵文王の口から溜め息が零れ落ちた。また、恵文王だけでなく他の臣達も藺相如は生きてはおるまい、と思っていたが、その数日後に藺相如が五体満足で戻って来た。これには恵文王だけでなく、他の臣達も驚き喜んだ。
「おお、相如よ。よくぞ戻って来た」
 謁見の間の上座には一段高い台が設けてあり、そこに敷物を敷いて君主が座り、聴政を行う。恵文王は上座から勢い良く降りると、復命のために参内してきた藺相如に駆け寄り、膝を折っている彼の手を取り立ち上がらせた。
「汝が言った通り、確かに璧だけではなく趙の面目も守りきった。見事じゃ」
 恵文王は藺相如を手放しに賞賛し、この功績を高く評価して上大夫の地位を与えた。   
 損なうことなく守り抜くことを「完(まっと)うする」という。藺相如が璧を完うしたこの逸話は「完璧」という言葉の語源となり、長く語り継がれることとなった。