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言霊・第六話 魂の在処

 定例通りに上卿や上大夫を集め聴政を行った贏政(えいせい)に李斯(りし)は謁見を求めた。しかも、余人を交えずに報告したいことがあると言われ、贏政は訝しく思いながらも李斯を伴って庭に出た。広い庭は常に贏政のために整えられてあり、中程にある池の近くまで贏政は歩いた。衛兵達は遠巻きに秦王を守るため、二人から視線を外さずにいるが、さすがに会話の内容までは聴こえないだろう。
 池の中も綺麗に整えられており、蓮が植えてある。蓮の葉と葉の間から見える、ゆったりと泳ぐ魚の姿に視線を落としながら、
「何があった、李斯。また客卿について問題が出たのか」
 贏政が問うと、李斯が懐から書簡を取り出した。受け取った贏政は中に書かれている文章を読んだ。最後まで読み終わる前に、
「人払いを申し出たのはこのためか」
 と抑揚のない声で贏政は呟いた。李斯が持ってきた書簡は、韓非が韓王に宛てた書簡である。その中身は回りくどい文章が書き連ねられているが、要するに、
 ───秦王の信を得ることは叶いました。あとは内より崩すだけです。どうかご指示を頂きたい。
 と、このようなことが書かれていた。この書簡が本当に韓非が書いたものならば、秦を内から崩す画策を韓非は行っているということになる。贏政は眉間に皺を寄せ、書簡を握りしめる様子を、李斯は落ち着きのない表情で見ていた。
 韓非は確かに父である韓王に書簡を出したが、それは近況報告だけで、このような内容ではない。贏政に渡した書簡は、李尚を通じて手に入れた書簡の文字を真似ることができる人物に金品を渡し、こちらのいう通りに書かせたものだった。贏政は韓非の書を毎夜の如く読んでいるため、生半可な真似では見破られてしまい、こちらが不利になってしまうだろう。だが、贏政の興味が韓非の方に向いており、もし韓非は自国を捨て秦に仕えるようになれば、同じ法家である李斯より優れている韓非が寵臣になることはまず間違いないだろう、と李斯は確信していた、何せ、韓非の書いた書を読んだときに贏政は、
 ───この書の著者と交遊はできればもはや死んでもよい。
 と言ったのだ。呂不韋が存命のときより仕えているため、贏政が軽々しくそのようなことを言う性格ではないことは知っている。まだ韓非が贏政に色よい返事をする前に、なんとしても彼を秦より追い出さねばならない。李斯は贏政の背に向かって、悲し気な声を装い話だした。
「同門のよしみで公子とは何度か話を致しましたが、公子は昔なじみのわたしに対し、おそらく気の緩みを見せてしまったのでしょう。公子の言動に不信な箇所を見たわたしは公子の行動をそれとなく見張っていたのですが、よもやこのようなことを画策しているとは、夢にも……」
「もうよい」
 鋭い声で李斯の言葉を止めると、贏政は立ち上がり、書簡を李斯の方へ無造作に放り投げた。慌てて受け取った李斯は贏政の顔を見た。いつも冷然とした表情であったが、微かではあったが双眸に失望の色があった。やはり、自分が考えていたことに間違いはなかったと、李斯は再度確信した。
「公子を牢に入れろ。あとは任せる」
 贏政は身を翻し、呆然としている李斯を残して歩いて行く。李斯はその後ろ姿を見て、口許を笑いの形に歪めた。

 いつもなら顔を見せる時刻になっても李尚がやってこない。やはりこの前のことで怒っているのだろう、と韓非は溜め息を吐いた。しかし、これでよかったのだ。自分のようなうだつの上がらない、名ばかりの公子などではなく、あれほど美しい容姿をもった彼女は、もっと相応しい者のところに嫁すべきだ。
「公子。如何なさいました? 筆が進んでおりませんが」
 先ほど韓非のために墨を用意した張昂に問われ、韓非は筆を握りしめたままぼんやりとしていたことに気付き、躊躇いながら筆を置いた。
「張昂、わ、わたしは……」
 韓非は何か言おうとしたとき、数人の足音が聴こえ、はっと二人はそちらに顔を向けた。李斯と姚賈(ようか)、その後ろに顔を伏せた李尚が部屋に入ってきた。張昂は彼らのいきなり部屋に入って来たことに加え、その雰囲気でただならぬことが起きたことを察し、韓非を守るべく彼の前に立った。
「何事ですか。他国の公子に向かってこれは非礼でしょう」
 張昂がそう言うと、李斯は忌々しそうに眉根を寄せた。
「どけ。わたしは秦王の命にて韓の公子を捕らえにきたのだ」
「な、なにゆえそのようなことを。公子が何をされたと……!」
「お前に話してもどうにもなるまい。公子の前から離れよ」
 李斯は韓非を庇うように立つ張昂を押しやると、韓非の前に立った。韓非は息を飲み、立ち上がった。
 何が起きたのかさっぱり分からない。李尚を見ると、小刻みに震える手で盆を持っている。その盆の上には杯が置かれていた。中身はおそらく鴆毒だろう。韓非は青ざめた顔で李斯を見ると、李斯は先ほどより距離を詰め、囁くように言った。
「あなたが書に書き記したことではありませんか。下の者は常に上の者を蹴落とそうと虎視眈々と狙っていると。だから、周囲の動向に気を配らねばならぬ、と……」
「なっ……! あ、あなたは、わたしの、下では」
「もし公子が秦にくれば、王は公子を客卿として迎えられるでしょう。そして、わたしはあなたの下になる。秦王は常に才あるものを求め、あなたを商君の再来だと思っていることでしょう。だが、わたしはそれを黙って見ているわけにはいかない。ようやくここまで登り詰めたのだ。仮令庶子だとしても、韓の公子であるあなたにわたしの苦労は分かるまい……!」
 韓非はここでようやく李斯に陥れられたことに気が付いた。同門に陥れられ臏刑(膝から両脚を切り落とす刑罰)を受けた兵家の孫臏(そんぴん)のように。彼は運良く生き延び斉へ逃れることができたが、この場に逃げ場はない。入り口には姚賈が立っており、息のかかる距離に李斯がいる。窓から飛び出したとしても、この宿舎のは李斯の息のかかった者達が万が一に備えて控えているだろう。
 満足に弁を振るうこともできない、庶子の自分が腹違いの兄弟や他人からばかにされたことは幾度となくあったが、このように危険視されることなど考えたこともなかった。
「仮にも公子たるあなたが牢にいれられることなど、あってはならぬこと。ゆえに毒杯を用意いたしました。あなたも公子としての矜持がおありなら、この杯を受け取られよ。李尚、杯を」
 名を呼ばれた李尚はぎこちない動きで李斯の近くまで来た。李斯は李尚を一瞥したあと杯を取ったが、その瞬間李尚は盆を投げ捨てると、杯を奪い返すべく李斯に飛びついた。
「な、何をする!」
 右手に杯を持っていた李斯は驚き、渾身の力で李尚を左手で振り払うと、彼女は韓非のすぐ近くまで飛ばされるようにして床に叩き付けられた。
「李尚!」
 韓非が慌てて駆け寄ると、李尚は顔を上げた。結い上げられた髪は乱れ、唇は色を失っている。
「も、申し訳、ありませ……わたしは……!」
 李尚の双眸から涙は止めどなく溢れて、床を濡らしていく。
「なぜ、なぜ、今更……」
 李尚は髪を掻きむしった。自分を袖にした韓非が憎かった筈だ。それに、彼らのに協力すれば、謝礼と相応の身分の者に嫁すことができるのだ。それなのに、必死になって彼を守ろうとする自分が信じられなかった。
 書ではあれほど雄弁なのに、言葉は少なくて時折見せる困ったような笑みを浮かべる眸は、限りなく優しかった。その眸を見て心が落ち着き自分がいたが、李尚はそれを特別な感情であるとは思っていなかった。それなのに、このような事態になって気付くとは。
「公子様……」
 李尚は泣きながら韓非の顔を見ると、韓非は優しい表情で首を左右に振った。そして彼女の顔にかかった髪をそっと横に流してやり、涙で濡れた柔らかな頬に手を添えた。
 ───そのように泣かずともよい。苦しまなくてもよい。李尚よ、わたしはそなたを恨んではおらぬ。
「え……? 公子様、今、なんと……」
 驚く李尚の躯を起こしてやると、韓非は李斯の前まで進んだ。李斯は自分より背の低い韓非に圧倒されるように半歩下がった。このような状況下で韓非の眸は全てを悟ったかのように静謐にして澄み切っている。韓非は手を延ばし、自ら進んで毒杯を受け取った。
「李斯よ、わたしの躯が滅んだとしても、わたしの言葉は、魂は、想いは全て書の中にある。そう、躯だけではない。どのような国でもいずれ、滅びを迎える。法家として、わたしはその滅びを少しでも引き延ばすことができないことが悔やまれるだけだ」
 まったく澱みなくそう言った韓非に、この場にいる誰もが言葉を失い、縫い付けられたように動きを止めていた。
 この躯は自由に動く。上手く話せなくとも言葉を記することはできる。ならば、もっとできることがあったはずだ。それなのに、吃音をからかわれることや奇異な視線に怯え、動こうとしなかった。ただひたすらに父に書を送っただけだ。しかも、それを読んではもらえないと分かっていたのに同じことを繰り返し、自分を満足させていたのだ。本当に韓を憂うならば、もっと動きようがあった筈だ。だが、もはやどうしようもない。今ここで毒杯を投げ捨てたとしても、李斯は諦めないだろう。ならば、せめて公子としての矜持だけは完うしたい。
「駄目です、公子様! お止め下さい!」
「なりません、公子!」
 李尚と張昂は悲鳴のような声を上げ、韓非から毒杯を奪うべく駆け出した。

 自室に戻った贏政は、文机に積み上げられた韓非の書に視線を定め、じっと見つめた。幼い頃から死にそうな目に何度もあった。母親にすら間接的だが殺されそうになった。他人など、簡単に裏切る。皆が自分を認めているのは秦王であるからで、それだけなのだ。なのに、韓非の裏切りは自分でも意外な程に堪えたようで、自室に戻っても何もする気は起きなかった。が、段々を落ち着きを取り戻してきたときに、ふと考えた。
 何かおかしい気がする。韓非の文章は飽いてもいい程読んだが、あの密書に書かれた文章の書き方に、説明のできない違和感を覚える。それに、吃音で満足に話せない韓非が内部工作などできるだろうか。また、韓王やその周辺の者も調べていたが、この国を内部から崩せるような策士などいなかった筈だ。
 贏政は身を翻し、走った。やはりあの才を失うのは惜しい。公子など、それなりに高い身分にいるものは立場にいる者は、牢に入るくらいならば潔く自決せよと教えられることがあることを思い出したからだ。
 裾を翻して走る贏政のために、女官や臣達は驚いた表情で素早く左右どちらかの壁に身を寄せる。贏政は臣達の視線など気にせず韓非が止まっている宿舎に入り、彼の部屋に文字通り飛び込むように入った。
「し、秦王……」
 ───遅かったか……。
 贏政の視界に入ったのは、すでに事切れている韓非と、残った毒を煽り韓非の側で同じく事切れている張昂、その側で涙を流しながらぶつぶつと呟いている李尚だった。
 床に横たわる韓非の口の端から血が流れているが、青白い顔は不思議な程穏やかな表情を浮かべていた。
「秦王、どうして、ここに……」
 おそるおそる訊く李斯の問いに答えず、贏政は唇を噛み締め苦しそうな表情を浮かべたが、すぐに李斯に背を向けた。
「遺体は韓王の元に返せ。……あとはまかせる」
「は、ははっ」
 李斯は何も言及されなかったことに安堵し、贏政の背に向かって拱手した。

 再び自室に戻った贏政は、韓非の書いた書物の一つを手に取った。墨痕鮮やかに記された書を開き、贏政は彼の書いた文字を目で追った。
「韓非よ。お前の思想は我が手中に在る。仮令、お前は望んでおらずとも、お前の残した思想はおれがひたすらに求める世に必要なものだ。……ゆえに」
 贏政はそこで言葉を切り、顔を上げた。まるでそこに韓非が立っているかのように、真っ直ぐな視線を前方へと向けた。
「お前の祖国を討つことになることを赦せ。お前の祖国を討ちながらも、お前の法家の思想を理想とすることを赦せ、韓非」
 肉体は失われたが、彼の魂はこの書にある。韓非がなかなか謁見ができない父王に、幾度となく書を送ったのは韓を強固に国にしたい、つまりは諸外国から守りたかったのだろう。韓王は韓非のことを一切気に掛けなかったが、それでも、秦の客卿にならないかと持ちかけても、彼は頷かなかった。仮令戻ることができても、彼が重臣になれるわけでもないのに───。
「哀れだと思うが、これが世の流れだ。我を阻むことはできぬ。韓非よ、泉下で見ているといい。秦が全ての国を飲み込んで行く様を……」
 贏政は書を仕舞うと、軍議を始めるべく自室から出た。

 韓非が没してから三年後、韓は秦に滅ぼされた。戦国時代を代表する秦を含む戦国七雄の中で韓が最初に滅ぼされ、秦王贏政は次々に他国も滅ぼし、紀元前221年、ついに贏政は僅か一代で中華統一という偉業を成し遂げた。
 各国にいた王よりもさらに上の位という意味で「皇帝」という名称を作ったのも彼である。こうして長きに渡って受け継がれて来た封建制度はなくなり、後世で史上初の皇帝という意味で「始皇帝」と呼ばれることになる贏政は「中華は一つである」という概念を作り上げた。これにより、中華は分裂と統一、乱世と治世を繰り返すこととなるのである。

 終

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